志布志の地名は、天智天皇遷幸の伝説の中で、天皇に布を献上した妻女の優しい心にならい、召使いの女性もまた布を献上したところ、天皇は大変感激され、「上下より布を志す誠にこれは上下の志布志である」といわれて高濱の郷中すべて志布志と呼ぶようになったと伝えられています。
平安時代この地域は救仁院(松山・志布志・有明東部)と呼ばれ、前川の河口部は、国内最大の荘園「島津荘」の水門(みなと)としての役割を果たしていました。
志布志の地名が、文献上に初めて現れるのは鎌倉末期の1316年宝満寺再興の折、志布志津の一角を宝満寺に寄進するという文書に見ることが出来ます。
志布志城を居城としていた島津氏六代氏久は1374年に明国に使いを派遣しており、当時から、中国や東南アジアと交易のあったことは山城の出土品からもうかがえます。
又、口伝としての「志布志千軒まち」の呼称も、既に中世に優れた海運力を持つ港町として、繁栄していた様子を物語る言葉とも考えられます。
藩政期の志布志は、島津領日向国唯一の浦町として、京阪や南西諸島との廻船で町は潤い、幕末には密貿易も盛んで多くの豪商を輩出しました。